なかなか面白い。

はてな
もりあがっちょります。
久しぶりに長文で感想をば。
最近論文形式の文書ばっかり書いているせいか、すっかり文体が堅苦しくなってしまっていて自分でも辟易する次第であるが、こちらのほうが今の自分には書きやすいのも確かである。
お見苦しいかもしれないが、多めに見てもらいたい。



感想としては、トリアージとは災害医療という究極の現場だから許される概念*1であって、これを正当化事由として普遍化することにはかなり抵抗感がある。
加えていえば、「全体や組織から見た最適」のために少数を犠牲にすることを公然と正当化しようとするのはまさに経営者の理屈であり、これを効率化、合理化といった概念で説明することは正しい。
かといって、これがいつでも通用することを前提とした理解を求めることには同意できない。


個人的な結論からいえば、講義においては経営者の理屈がもつ正当性を学生に理解させる姿勢と、それがどこまで通用するかの限界を合わせて語るべきであったのではないか。
一方的に、常に経営者の理屈が当てはまるような例しかあげず、それにしたがってあらゆる場合に経営者の理屈で考えるべきであるかのような説示だと聴講する側に感じさせてしまうのであれば、それに対して全体のために一部を犠牲にすることに対する感情的な反発が出てきてしまうのもまた、自然なことであろう。
さらに言ってしまえば、そのような理屈を伴わない感情というのは、人間にはなかなか切り捨てられないものであり、これらは保護されないわけでは決してない。
だからこそ、理論的でないことだけをもって、このような感情を切り捨ててしまうというのは、それこそ理論的ではないのではないか、という気もする。なぜこのような理屈に基づかない感情は、この場合考慮に値しないのか理由をあわせて示すのが、説得的な説示であろう。


経営者の理屈を紹介し、その正当性を語る。
ついで、この正当性はどこまで通用するかの話を限界を交えてかたり、実例をだす。
その上で、このような場合は経営者の理屈でもって考える視点が大事である場合であるから皆さんこのような視点をもってくれ。
このような流れにすることが、感情的な反発を抑えて納得させるという意味ではまさに効率的であったのではないか、と拙は思う次第である。


「全体や組織から見た最適」の論理が通用しない領域、少数者の利権のために最大多数の最大幸福が排除される領域が存在することは、法の存在から見ても明らかである。

「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」

という、この場合には「全体や組織から見た最適」の論理が通用しないのではないか、という疑問に対して
「全体や組織から見た最適」が通用する場面なのであるという理由を示すことがない、というのはやはり説示不足なのでないかと思う次第である。
トリアージで黒のレッテルを貼られるものにとっては人権侵害であることは確かである。しかしそれが絶対に許されない人権侵害であるかは、また別の問題である。したがって、後者の問題については別に、このような人権侵害はやむをえない、という結論に至る理由の説示をする必要があるではないか。


fuku33氏には

この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。

と写ったようであり、実際の発言者がどう思ったかについては拙には確認のしようもないが、もし発言者がこの場合に「全体や組織から見た最適」の論理を振りかざすことの疑問を感じていたのであった場合に、fuku33氏からの解答がこのようなものであったのだとしたら、残念なことである。


アパレル業界における「百貨店かわいそう」の主張についても、当たり前のことを疑ってみるということは学問の基本であるから、なぜ自由競争を保護しなければならないのか、という視点にたって
なぜ「競争で負けた組織はかわいそうだ」とはいえないのかの分析・説明もあってしかるべきだったのではないか。
「全体や組織から見た最適」から考えれば、当たり前、というような視点は学問的とはいえないだろう*2
実務で考えられている当たり前をもう一度批判的に分析しなおすのもまた学問だろう。
経営学とは、現実の経営者の視点を教える学問であって、現実の経営者の視点を分析し、あるべき経営者の視点を考察する学問でないのであれば、これもまた正しいのかもしれないが。


「全体や組織から見た最適」の視点が抜け落ちている
→当該視点があればこのような疑問がでてくるはずもない
経営学系の人からみれば当たり前のこと
という説明では、教わる側としても納得がいかないものも出て来うるだろう。


いや、講義においてはそんな時間はとてもとてもということもあるのだろうから、拙の主張が現実的かどうかには疑問もあるが。




拙としては、「経営学系の人」間で通用する理屈を、「経営学系の人」以外にも通用させようとする場合には、もう一度「経営学系の人」の常識を疑ってかかる必要があり、その常識が以外の人にも通用しうる常識であることの説明が必要であると思う次第である。


ちなみに、これは「法学系の人」間で通用する理屈を、以外の人にも通用させようとしがちな拙にとっても忘れるべきでない、重要な問題である。
最近頭があまりまわっていないので、整合的な文章をかけた自信はない。
ただ、個人的には一行で他者の考えに批評を加えるというのは本来あるべき姿ではない*3、と思ったので長文を書かせていただいた次第であるから、整合性が欠けていたとしても、長文にする理由があったのだから、と多めに見てほしいというのが本音である。


まあ、長文がかける余裕がないときも多いわけであるが。


なお、最後に確認の意味で書いておくが、拙はfuku33氏が述べる、「資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる」という主張が間違っていると述べているわけではない。
このような主張が通用しない領域が存在する可能性があり、したがってそれが通用する領域なのかどうかの検討・説示がいるであろうから、対立する主張を当然だめ、という態度で切り捨てるべきではないのではないか、ということである。


例示という意味では大分ずれるが、Levi Strauss & Co.の非上場化などは効率性と最適配分よりもCSRを優先した例なのではないか。


以下、5月28日追加

昨日はとにかく感想をぶちまけただけであるが、今日は他者の感想も読んでみようとおもって読んでみた次第である。
そこで、以下のような興味深いものを見つけたので、紹介しておく。
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去
あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系
2008-05-27


それぞれ、fuku33氏のコメントもあり、勉強になる。ただし、拙が彼らの意見に諸手をあげて賛成する、というわけでもないことに注意されたい。具体的な不賛同部分はここでは上げないが。


やはり思うのは、文章で自らの考えをあらわすことの難しさである。
fuku33氏がどのように当該講義をしたのか、その時何を思っていたのかは実際のところ拙らにはわからず、fuku33氏のエントリから想像するしかなかったのである。
したがって、感想を述べる者ごとに違った捕らえ方をすることは十分ありうるし、それが実際のそれとはずれがあるのもまた通常であろう。
fuku33氏からは、そんな意図はないとか、曲解であるとかの批判もあるのであろうが、このようなずれが生じてしまうのはやむを得ないところであろう。
さらにいってしまえば、本当にfuku33氏にそんな意図がなかったのかとか、曲解であったのかについても、拙には判断ができないのである。
批判を受けて都合のいいように付け加え、修正をしている可能性も捨てきれない。


拙らののべる事は
fuku33氏のエントリからはそのような捉え方もできうる、そう捉えればこんな問題がある、という批判であり
さらには、このような問題がありうるが、それについてはどう考えるのかという疑問でもある。

結局のところ、文章(による弁論)の難しさなのであろう。


なお、以上の部分(追加部分だけでなくて、全体)についてはfuku33氏のエントリにある

もちろん、これから少しずつでももうちょっと考えを深めさせていきたいと思いますが、なぜこうなるのだろうかわからない。

の部分についての拙なりの解答でもある。


*1:またその正当化においてはさまざまな根拠が付け加えられるが、それでもその正当性には疑義が残るもの

*2:実務的だとはいえるのだろうが

*3:単なる感想的な短文の批評では、論拠がはっきりしないため批評された側も何をどう反していいのかわかりづらいであろうから