引用と要約

とある事情で「貧乏人は麦を食え」をぐぐっていたら、↓のサイトに行き着きました。

これがすばらしく面白い。

引用とは、自説の拠り所として、他人の言葉や文章の一部を使うことですが、必ずしも言葉通りである必要はありません。その趣旨を要約することも許されているからです。
と書いていますが、正直言ってこれを本気で信じているならびっくりです。
引用とは著作権法の例外であるわけですが*1、文章の表現方法自体も著作物を構成する以上、それを改変するような引用は著作物を改変することになり、許されません。*2


許されるのはせいぜいが文章全体の意味を改変することが無い限度においての中略までです。*3
要約をすることは必然的に表現を改廃する必要があるので、これはすでに引用ではありません。
引用に際しては、原文のまま掲載することが必要であり、内容を多少なりとも変更すると「同一性保持権」を侵害する可能性がある。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/net/inforisk/050524_quotation-summary/index1.html
のページにも書いてありますし、このページの下のほうには要約は引用ではなくて翻案の一種であると書いてあります。
つまり意味が同じでも表現方法を変えればこれは翻案です。
そして、無許可での翻案は基本的に著作権侵害、正確には翻案権侵害です。
ただし、要旨程度の記述にとどまっていれば翻案権*4の侵害にはなりません。


ちなみに判例百選などで判決要旨という部分がありますが、判決原文のままの表現の部分と評釈者が要約している部分は字体・フォントの変更できちんと区別されていますよ。


とまあそれはおいておいて、引用と要約がまったく別物であることは明らかですね。
そして、原文をそのまま引っ張ってくる引用においてすら意味を改変することが無いように注意しなければならないのに、ましてや文章を改変してしまう要約において文章の意味を改変してしまうことがないようにより一層注意しなければならないのは明らかです。
論文等における引用とちがって*5、意訳要約の場合はその場で原文を見ることができないわけですから、読者・視聴者からすればその意訳要約が間違っているかどうか検証するすべがないため、間違っていてもそのまま信じてしまいがちですし、疑ったとしても間違いであると断定することが困難なわけですから。*6



ところで、このサイトでは
言論は言わんとするエッセンスをいかにわかりやすく第三者に伝えるかという意味で、省略や要約もまた重要な要素なのです。学術論文やお役所の報告書のようにいちいち細々と根拠を書いていては文章が冗長になり、言論に勢いが生まれません。
と書いています。
確かに、言論においては要約をもってわかりやすく端的に伝えるというのは重要なことで、学術論文や報告書のように論拠等を書きつくすことが可能な文書とは求められるものが違うのは明らかです。従ってその限りでは発言を要約することも、あるいは新聞の見出しのように端的で力強い表現を用いることも出来るというべきでしょう。*7


しかし、その後でこう続いています。


他人の記事の根拠を細々と問いただすような輩からみれば、「貧乏人は麦を食え」はきっと間違いであるということになるのでしょう。それは重箱の隅を楊枝でほじくることに楽しみを見出す人たちの世界にしか通用しない発想です。池田蔵相の言葉を「貧乏人は麦を食え」と意訳したからこそ、その発言の本質をとらえたのです。それが言論なのです。


言論には勢いが必要であるから要約も許されるというのには合理性がありますが、文章の意味自体を変更してしまうのはもはや要約ですらありません。これは歪曲です。ディベートをやっていた人ならばわかると思いますが、エビデンスディストーションは最もやってはいけないことですよね。*8
では、著作物ではなくて発言だから歪曲が許されるのかというと、当然許されるわけはありませんよね。
著作権法の保護こそありませんが、その発言の歪曲によって発言者のイメージが悪くなってしまった場合には、名誉毀損ということだってありえますからね。


「言論である」こと、「言論の自由がある」ことを錦の御旗にして、内容の改変を伴うものを「要約である」「意訳」であるからいいのだということが許されるわけがないのは明らかですよね。
もしもこの筆者がいうように「発言の本質をとらえた」というのであれば、そのことの説明が当然できなければなりません。



なのに、「発言の本質はこの意訳とは別ではないか」と考える人がその意訳にたどり着く根拠の説明を求めることを「他人の記事の根拠を細々と問いただすような輩」として、あるいは「重箱の隅を楊枝でほじくることに楽しみを見出す人たちの世界にしか通用しない発想」などと歯牙にもかけないというのであれば、つまり「重箱の隅を楊枝でほじくることに楽しみを見出すことでしかない」とってしまうのであれば、それは思い上がりもいいところであって、傲慢ですらあります。


この筆者はもしかしてマスコミ関係者なのでしょうかね。
いつぞやの柳沢氏の「女性は産む機械」などという歪曲されまくった発言のときの問題において、あの氏の発言から「女性は産む機械」という論旨を発言の本質とすることは妥当でないということをいつぞやこのblogで書きまくりましたが、この筆者の発言からはあのときのような柳沢氏の発言の歪曲紹介も「言論の勢いのためにあのように意訳することはゆるされるし、あのように意訳したからこそ発言の本質をとらえている。あれが言論だ。」となるのでしょうか。


言論の特別扱いは、論文*9や報告書に比べてそこまで優遇されていいものなのでしょうか。そんなわけはないですよね。
内容の改変は伴わない、というのは最低限守るべきルールであることは明らかでしょう。


最後に注意として。
この筆者の本来の主張である「横山さんの陳謝は不要である」かどうかについては、上で書いたこととまったく別物ですので、注意してください。
またこの小泉さんの発言の趣旨が本当はどうであったかについて僕は考察できませんので、本当にこの要約が本質を外しているのかどうかについても僕は判断をしていません。
ただ、この池田元首相の発言については「貧乏人は麦を食え」という意訳は間違っていると思います。
そもそも「食う」→「食え」と断定から命令に変えてしまうのは明らかに改変ですし、「発言の本旨は命令だ」とまでいえるとは思いません。これ以上詳しくは書きませんが。
柳沢氏の時みたいにまた大量になってしまいそうですし、もう昔のことですので。まあ昔だから名誉回復とか、真実究明の必要はないってことじゃないですけどね。そのモチベが自分にはわかないっていうか。たいした名誉回復になるわけでもないし。



あと、
ネット新聞JANJAN用Wiki - 貧乏人は麦を食え」の勧め
参考までに似たようなことを書いているサイトを紹介しておきます。


試験が近くなると、現実逃避で別のことに頭使いたくなるんですよねぇ。



ちなみに、発言のディストーションについては
「福島瑞穂の迷言」という都市伝説について(事務所コメント付) - 荻上式BLOG
続・「福島瑞穂の迷言」というコピペについて - 荻上式BLOG
これがかなり面白いので見てみてください。
人間の記憶は不確かなので*10、このディストーションが意図的なのかどうかまではわかりませんが。
また、僕は実際には詳細に検証しているわけではないのでこの記事が真実かどうかもわかりませんが、ま参考までに。
とても面白いですよ。

*1:著作物以外にも引用の概念は当てはまりますが、またこのページで問題になっているのは発言の引用であって著作物とはいいがたいのですが

*2:あまり徹底すると、例えば字体の変更、フォントの変更はどうなるのだとなりますが、これは著作物の性格によるでしょう。文学作品やホームページなど字体やフォント、レイアウトなど自体が著作物を構成する場合と、学術論文など文章自体が著作物として意義を持つもので違ってくると思います。これは実は翻案権との関係で問題になります。

*3:前略や後略もですが、これは著作権法上許される引用の性格上当然のことです。

*4:著作物を独占排他的に翻案する権利

*5:引用の場合は、その引用者の解釈が正しいかどうか引用された原文との対比で読者が判断することが担保されています。十分ではない場合もありますが。

*6:今はネットの発達で原文、現表現、現発言にあたることが比較的容易になりはしましたが、見た・聞いたその場で判断することは難しいのは限りません。

*7:また、このような思い切ったことができる理由には、記事で引用、要約、意訳するものは一般には著作物ではなくて、だれかの発言や事件の事案などであるので、著作権法の制限を課せられないということも当然あります。

*8:ディベの場合は翻訳という作業がはいるのでもっと複雑なのですが

*9:論文だって言論ですが、ここでは即時性を要求される記事の言論という意味とします。たぶんこの筆者も沿う解釈していると思われますが。

*10:これは科学的にも証明といっていいのかはわかりませんが、確かにそういわれています。ひきづられて改変されるんですよね。