擁護してみるか。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/995720.html
ちまたでたたかれまくっているこの事件の弁護団
一般世論との感覚とはかけ離れた意見であろう考えをアップしてみることにします。
ちなみに以下に書いたことは総論であって、必ずしもこの事件の弁護活動が正当だという主張ではありません。
いきすぎということもありえます。


これについては裁判の結果が出てからですかね。
あんまり公平な視点のいい資料が見つからないので、判決文を見てみないとなんともいえませんので、今日は一般論のみで。



刑事事件においての弁護士の役割には正義の実現と、真実の追究と、被告人の利益の保護があります。


この中で一番大事なのは、実は被告人の利益の追求なのですね。
非常に簡単にいうと、検察官は精一杯罪を追及し、弁護人側は被告人を精一杯擁護する。この二つがぶつかり合って初めて真実が発見され、正義が実現されるというのが裁判の制度なのです。
だから弁護人は社会がどんなに被告人をたたいたってその被告人を擁護する義務があるのです。
むしろそのような場合こそ、被告人の数少ないあるいは唯一の味方として弁護人だけは最後まで抵抗する義務があるわけです。
それが弁護士の正義なわけです。世論は正義を意味しないのです。多数派の数の暴力から少数派(この場合は被告人)を保護するのもまた法の役割であり、弁護士の責務なのです。



したがって、弁護人は被害者の気持ちを考えてないとかいう反論は的外れで、弁護人が被害者側についてしまったら日本の当事者主義による刑事司法制度が崩壊します。
検察官は被告人の敵、弁護人も敵となったらそれは裁判ではありません。


また、今回のように世論は容易に被告人叩きに走ります。今回のようにやったことは間違いがなさそうな場合だけにとどまらず、それがまだ嫌疑があるという程度の段階でもです。
だからこそ弁護士ぐらいは最後のそして最大の被告人の味方として守ってやらなければバランスが取れないんですね。
また、被害者を重視し、被疑者、被告人、加害者を軽視する方向の世論を賛同を得やすいので、どこかで歯止めをかけないとどんどんエスカレートしていく可能性がかなりあります。だからこそ弁護士だけは、被疑者側のことを擁護してあげなければならないのです。歯止めにならなければならないのです。それが、法なのです。
たとえば、被害者の法廷参加。*1も世論の強力な後押しがあってのことですよね。あれも結局日弁連の反対は押し切られてしまいました。弁護士が加害者側を擁護したって押し切られてしまうのに、これで弁護士まで被疑者側を擁護しなければ、いったいどこまでいってしまうのでしょうか。


被害者の方には気の毒ですが、被告人は犯罪者とは限りません。また犯罪者であっても人権は存在します。だからこそ、被
害者に対して配慮して、弁護人は弁護をやめろということはできないわけです。



まあとにかくなんでもいいから死刑にしろとおっしゃっている方々については、死刑を厳しくするといつか自分も死刑にされる可能性があるということを失念している方々ばかりなような気がするので、俺からすると論外ですが。
人間、最初から犯罪しようなんて思って生きている人は少ないわけですから、誰しも犯罪者になる可能性があるわけです。
被害者になるイメージはあっても加害者になるイメージはなかなかもてないんですよね。
犯罪者は即死刑みたいなことになって、たとえば自分が自動車事故で人を死なせてしまって死刑になってしまってもその覚悟はあるというのであれば、まだわかるんですがね。


さらにいうならば、刑罰は被害者救済のためにあるわけではありません。被害者の救済については別の道を探るべきであって報復感情の満足を刑罰によって達成するというのを安易に認めるわけにはいかないのです。
この辺は修復的司法の話ですので、今日はこれだけです。
まあ、一度ハワード・ゼア先生の本3冊セットで読むことをお勧めします。


あんまり書いてあることがまとまってませんねぇ。

*1:ちなみに裁判員制度の下ではあれば公平な判断を阻害する可能性が高いので私は反対です。職業裁判官ならまだしも。被害者救済の道は、刑事訴訟とは別に考えるべきです。