またこの人は。

柳沢厚労相がまたやらかしたそうですね。この人はどんだけ僕の勉強をじゃますれば気が済むのでしょうか。


正直もう一度発言を分析するのもめんどくさくていやなんですが、前回の批判者からホレ見たことかといわれるのがいやなので今回もやります。
擁護ではなくてあくまでも分析ですよ、今回も前回も。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070206-00000132-mai-pol
より引用。


順序を逆にして、まず厚労相の発言から。

 ■柳沢伯夫厚生労働相の6日の記者会見での主なやり取りは次の通り。
(記者) 少子化対策は女性だけに求めるものなのか、考えはいかがか。
厚労相) 若い人たちの雇用形態が、例えば婚姻状況などに強い相関関係を持ち、雇用が安定すれば婚姻率も高まるような状況なので、まず若者に安定した雇用の場を与えていかなければいけない。また、女性あるいは一緒の所帯に住む世帯の家計が、子どもを持つことで厳しい条件になるので、それらを軽減する経済的支援も必要だろう。もう一つは、やはり家庭を営み、子どもを育てることには人生の喜びのようなものがあるという意識の面も若い人たちがとらえることが必要だろう。そういうことを政策として考えていかなければならない。他方、当人の若い人たちは結婚をしたい、それから子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいるわけだから、本当にそういう若者の健全な、なんというか希望というものに我々がフィットした政策を出していくことが非常に大事だと思っている。


赤字部分が問題部分。
それに対して各種のコメント



「女性は産む機械」と発言し釈明に追われている柳沢伯夫厚生労働相が、6日の記者会見で「2人以上子どもを持ちたい若者」を「健全」と表現したことが波紋を広げている。首相官邸は問題視しない構えだが、野党側は「子どもが2人以上いなければ不健全なのか」と一斉に反発。柳沢厚労相の辞任を求める動きがさらに勢いづいており、国会審議の正常化を前に新たな火種となる可能性もある。
 厚労相は「若い人たちは結婚したい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と指摘。国立社会保障・人口問題研究所の05年の調査で「いずれ結婚する」と回答した未婚男女の希望する子どもの数が平均値で2人を超えたことを踏まえた発言だった。
 これに対し、野党側は「女性蔑視(べっし)が頭の中に染み付いているようだ。看過できない」(民主党鳩山由紀夫幹事長)▽「かつての『産めよ増やせよ』とお国のために子どもを産んだ考えと同じようだ」(国民新党亀井久興幹事長)――などと反発、厚労相の辞任を求め安倍晋三首相の任命責任を追及していく考えだ。
 一方、「産む機械」発言では厳しい声が上がった政府・与党だが、今回は静観している。自民党片山虎之助参院幹事長は記者会見で「少子化阻止は大きな国政上の課題。2人以上が望ましいとなるんじゃないか」と理解を示し、同席した矢野哲朗国対委員長が「(発言は)ごく自然ですよね」と差し向けると「自然だと思う」と同調した。
 首相は同日夕、首相官邸厚労相と協議後、記者団に「わが家も残念ながら子どもがいないが、いちいち言葉尻をとらえるより政策の中身をお互いに議論していくのが大切だ」と問題視しない考え。厚労相も記者団に「発言は不適切とかではなく、素直に聞いてもらえば分かる」と理解を求めた。【古本陽荘】



さて、まず
健全という言葉の意味を三省堂大辞林より調べてみると

健全
(1)体や精神に悪いところがなく、元気なさま。
「―な肉体」
(2)状態や考え方が片寄らず普通であるさま。堅実で安心できるさま。
「―財政」「―な読み物」

となっています。



論理の飛躍について
大前提として少子化を解決しなければならない」 という指針が政府には存在します。
これについて僕は反対であること
を述べました*1が、少なくとも現状の政府は少子化解決という方向性で政策を決定しているのは明らかです。


その政府の少子化に対する方向性に従えば、出産数を増加させないことには解決法がありません。
さらにいうなら、子作りは二人でするものである以上、一つの夫婦に2人は産んでもらわないと人口維持すらできません。
すべての人物が結婚するわけではない以上、全夫婦が二人産んだとしても人口維持はできないことになるわけです。
ただし、精子バンクがもっと堂々と利用できるようになったりして、未婚(離婚歴なし)のシングルマザーがどんどん増えるというのであれば話は別ですが*2、そうでなければこれは厳然とした事実です。


さて、その政府の人口減少に歯止めをかけるとい政策に沿って考えると
子どもを2人以上持ちたい という願望は、(極めて)健全な状況 ですね。
すくなくとも政府にとって見れば
健全の第二の意味「堅実で安心できるさま」に該当しますし、少子化を解決したいと考えている人にとってみても健全でしょう。
というよりもむしろ、二人では人口減少はとまらないので「極めて」というのには逆に疑問があります。
安心はできませんからね。
とまあそれはどうでもいいですので次にうつります。


そしてこの発言が女性蔑視であるという人がいるわけですが
まず、ある事象Aが健全であるからといって¬A(¬は否定記号です。この場合はA以外という意味です。)が健全でないという結論が必ずしも導き出されません。
Aが健全であることと、B∈¬A(A以外の中のB)が健全であることが両立しないこと、二者択一的関係にあること、あるいは排他的関係にあることを示さなければなりません。
そうでなければ
Aは健全だが、Bも健全であるという、Aが健全でありつつ、A以外にも健全である事象が存在するということがありえるからです。


よって、「二人以上の出産願望があるのは健全である」からといって「二人以上の出産願望があるというのは不健全」であるとは断言できません。
「子どもが2人以上いなければ不健全なのか」という反論は、択一性を証明していないために論理に飛躍があります。



健全性について
さらにいうならば、少子化を解決するという政府の政策に従って考えるならば
「子どもが2人以上いない夫婦」は政策上安心できませんので不健全です。批判を覚悟でここはあえて断言します。


しかし、そのことが人間として不健全かどうかということとは峻別されるということを認識してください。

なるほど、確かに少子化解決という政策上「子供が二人以上いない夫婦」「独身者」「子供をつくらない人、つくれない人」は不健全だといえる。
しかし、人間には自己決定権があり、子供をつくるもつくらずも本人の自由のはず。
子供をつくらないというのは自己決定権の正当な行使に過ぎず、子供が二人以上いないことは人間としての健全さにいささかも影響を与えない。
したがって子供が二人以上いない成年は不健全ではない。

という結論を導き出すことだって十分可能で
この場合、「二人以上の出産願望があるのは健全である」ことと「子供が二人以上いない成年は不健全ではない」ということが両立しますね。



そもそも健全とは、一体何を基準にして健全であるというかによって意味が変わってくる言葉です。
例えば、健全を(1)の意味の「体や精神に悪いところがなく、元気なさま」を使い、さらに基準点を「まったく悪いところがない状態」とかなり高度に定義づけるとします。
すると、現代人は医者にかかれば一つは精神病の病名が診断されるといわれるぐらいですし、自覚症状に至らないような軽微な肉体的病気(高血圧など)をも勘案すれば、およそ大体の日本人は不健全であるといえますよ。


さらに(2)の意味の「状態や考え方が片寄らず普通であるさま」と定義づけると
一体なにが普通であるのかによって何が健全かなんて変わってきますね。
内容的正当性に関わらず、最大多数が普通だとおっしゃるのであれば、ゆがんだ意見でも多数決で採択されればそれは健全になることになります。例えば、ヒトラーを選挙で選んだドイツ国民の判断は、当時のドイツ国民だけからみれば健全ですね。しかし後で振り返ってみると不健全です。


内容的正当性を考えると、今度は多数意見との兼ね合いが問題になります。
例えば、今回の少子化問題において、少子化は解決すべきであるという考えが正当であるとするならば、「子供を二人以上つくるという」思想が状態として「普通」にならないと政策実現は難しいですね。
しかし多数意見がそんなものは普通でないといった場合には、さてどうしたらいいのでしょうか?
これについては後述します。


しかも、思想・良心の自由などおよそ自由権に根ざす自由主義を採る国家において、「片寄らない状態」など存在するのでしょうか?
皆がそれぞれあっちこっちに片寄りあいながらバランスをとっているのではないですか?
すると、自由主義国家においては結局、皆不健全であることになります。


「堅実で安心できるさま」と定義しても面倒なので書きませんがいろいろな健全、不健全が存在します。



健全であること、不健全であることは相対的なものなのです。どうもこの発言に批判をする方々はこの健全の意味を絶対的なものだと一人歩きさせているように感じられます。
つまり、不健全=悪、健全=善といった式が頭の中にあるように感じられますが、この二つの式は必ずしも成立しないのです。
そのあたりも、論理の飛躍とあわせて考えていただきたい。



産めよ増やせよについて

例えば、今回の少子化問題において、少子化は解決すべきであるという考えが正当であるとするならば、「子供を二人以上つくるという」思想が状態として「普通」にならないと政策実現は難しいですね。
しかし多数意見がそんなものは普通でないといった場合には、さてどうしたらいいのでしょうか?

と上述しました。
そして「かつての『産めよ増やせよ』とお国のために子どもを産んだ考えと同じようだ」 という批判が国民新党亀井久興幹事長からあります。


まずこの亀井氏の発言において、かつての産めよ増やせよ(確か正確には産めよ殖やせよだったと思うのですが)、とは違いが多々あることをあげておきます。
いろいろあるのですが、本筋とは関係がないので一つだけ。
かつての「産めよ殖やせよ」「お国のために」とは「天皇のために」の意味でした。さらにいうなら「支配階級のために」ですね。
しかし今でいう「産めよ殖やせよ」とは「公共の福祉のために」です。


国のために産めよ殖やせよではなくて、国民みんなの利益のためになんですね。ここがわかってないように感じられます。
もちろん公共の福祉=公益ではありませんし、公共の福祉のためだったらなんでもしていいわけではありません。
それについては、公共の福祉によって、国民の利益と、子供を産むことを推奨されることによって侵害される利益との比較衡量になったりするわけですが。


では、公共の福祉のためであっても「産めよ殖やせよ」自体がそもそも許されないとするのであれば
「産めよ殖やせよ」せずに少子化を解消するにはどうしたらいいのでしょうか?



僕のようにそもそも少子化解消必要なしという意見でしたらわかるのですが
少子化は解消しなければならないと批判者が考えていて、なお「子供を二人以上つくるという」思想を状態として「普通*3」にする*4のは許せない=健全扱いするのは許せないとなると


「子供を二人以上つくるという」思想は普通ではない。しかし子供を二人以上作らせないと少子化は解消しない。だから普通でないことを国民にしてもらうには法律による強制が必要で、「出産法義務付法」の立法へということになりませんか?


「子供を二人以上つくるという」思想を状態として普通にするために立法するならば「出産促進法」あるいは「出産補助法」ということになります。
その内容は出産自体を促進、補助するために、労働、育児等といった周辺環境の整備にわたり
子供を複数つくりたいと大多数が思うようにするための法律
つまり子供を複数つくることが普通になるようにするための法律
ということになります。
このような法律を作ることにはあまり抵抗はないでしょう。
これは一種の思想誘導ですが、強制がないのであくまでも最後は国民の自由意志にゆだねられているのですから。
まあこれも問題だと考えることも出来なくはないですけどね。「思想誘導など実質的には強制と同じだ!」といって。


しかし、そのような思想、状態を普通にすることに抵抗があるのでしたら、
そのような状態が特別でありつつもなお出産数を増やすためには、もはや出産を強制するしか*5ありません。


ただし、ここで「子供を二人以上つくる思想が普通であること」が必ずしも「子供を二人以上つくらないことが異常であること」
を意味しないと考えるのならば、その限りではありません。
が、するとそもそも批判者の不健全性に関する主張の論理の飛躍を真っ向からみとめたことになりますよね。


もうすこし詳しくのべます。
少子化解決と、立法による義務付けをしないであくまでも任意で出産を促しつつ、しかも産みたくない人にも配慮するとなると
子供を二人以上つくるのは普通だけど、つくらなくても異常ではないからそれを選ぶのまた自由で正当だという結論で、少子化対策をしようと考えることになります。


しかし、この結論では結局子供を二人以上つくる思想が健全であっても、女性蔑視にあたらないという状態がありえることになりまして、批判者の批判の矛盾性が浮き彫りになることになります。
このように批判者が考えているのだすれば


柳沢氏の発言は
少子化解決のために、政府としては子供を二人以上つくってもらいたい
→しかし、強制することによって自己決定権を侵害したくないし、子供を産めない人に重圧をかけることもしたくない
→だから、出産、育児、労働等の関係を整備して、子供を産みやすくする
→結果、子供を二人以上つくる状態が普通であると皆が自然に思うようになって、自主的に子供を産んでほしい
→このような政府の政策を基準に考えると、現状で子供を二人以上産みたいと若者一般が思っていることは政府的には極めて健全である
ということになるわけで、結局批判者の考えとかわらないことになりますね。


その上でなお、普通であるとか、健全であるということについて批判をし続ける方がいるとするならば、
彼らの頭の中には普通=善で、異常=悪という式が存在し、
普通でないこと=異常=悪という式が導き出されていることになります。


結局、普通を多数派と構築するならば、少数者は悪であって差別されるという思想があることになるのではないでしょうか?
批判者こそがむしろ、普通でないこと、不健全であることを悪と決め付けて、普通でないもの、不健全なものを差別する思想を持っていることになると思うのですが、どうでしょうか。
普通が多数派から構成されるのだするならば、少数者を差別していることになりますし、そうでなくても普通からはじき出される者を差別していることになりますよね。



普通でないこと、不健全であることが悪でなければ、仮に子供を二人以上つくらないことが不健全であっても、それは正当な自己決定権の範囲だからまったく悪ではないので、批判にはあたらないと思うのです。


まあ不健全よばわるされる人の気分が害されるということはありえますが、これは機械のたとえのときと同じで許容性の問題になります。
これについては健全さの部分で述べたことで終わりにします。


いーじすさんがこの発言について
僕と似たようなことを書いていたのでリンクを張っておきます。
いーじすの前途洋洋。 - FC2 BLOG パスワード認証

*1:少子化問題解決に反対なのではなく、あくまでも少子化解決に反対なのです。

*2:もっというならサロゲートマザーや、卵バンク、人工子宮の開発、国籍移転、移民の奨励などいくつか他にもすべがあります。

*3:ここでの普通は、国民の一般(多数派ということになりますか)の思想傾向と合致するということです。

*4:これが「産めよ殖やせよ」政策ですね。ただし、この言葉の意味が強制の場合と促進の場合の違いがあります。違いについては後に述べますが、ここでは促進で使っています。

*5:といっても罰則や課税をするなどの間接強制をすることになりますが