民主主義と自由主義。

昨日の法哲学法思想史はルソーとモンテスキューが主題だったのですが
民主主義と自由主義の関係について討論しました。

今日では当たり前のようにセットになっているこの二つの言葉ですが*1
歴史的な沿革からいうとこの二つはむしろ対立するものであったようです。
くわしい沿革をかくとやたらと複雑なので書きませんが、不正確さを承知で簡単にのべると


民主主義とは、平等が根幹にあります。
不平等な社会を平等な社会に組み替えなければならないと考えました。
結果全員が政治参加をすることになります。
これが民主主義です。

元来考えられていた民主主義は、討論を繰り返すことによって全体意思を形成するものでした。
しかし、それが小さな国家ならともかく大きな国家になっていくと、全体意思の形成は不可能になります。
結果、多数決による一般意思の形成に変わっていくことになります。

結果少数意見が多数意見に服従することになり、自由というものが脅かされることになります。
また、民主主義は、衆愚政治に陥る可能性があり、間違った多数派の判断によって、国家が間違った方法にいくことも十分考えられるます。
このことを、自由主義者たるモンテスキューは民主主義の恐怖と考えました。


さて、自由主義にうつります。
それに対して自由主義は、自由を根幹にすえます。自由とは、強制からの自由ととらえ、強制主体は権力でありました。
自由主義は、民衆というものに徹底した不信感をもっていました。
自由主義は権力から自由を確保しようとするものですが、ここで言う権力とはもちろん君主もありますが、何より数の暴力を振りかざす、民衆の権力すなわち民主主義から自由を確保するものであったのです。
そこで彼らが考えたのは、自然法という概念です。
すなわち法の支配ということです。

自然に内在している法規範というものが、あらゆる権力より上位にくるのだ、と考えることによって、多数派たる民衆でも侵せない権利があると考えることによって、権力より自由を確保しようとしたのです。


その現れが、憲法です。憲法は国家の最高法規です。立憲君主制では君主より上位にあって君主を縛り、立憲民主制では最高機関である議会*2より上位にあって議会およびその下の機関を縛ります。
すなわち法という概念から自然法が生まれ、自然法から自然権が生まれ、自然権から基本的人権がうまれ、基本的人権を書き記したものが憲法になるわけです。

そして、法の支配の典型的現れが日本で言うところの違憲立法審査権です。
民主主義の象徴たる議会が、基本的人権を侵害して自由を不当に脅かすことがないかどうかをかんしするわけです。

つまり、自由主義は、民主主義による民衆の権力を抑制するところに端を発しているといえるのです。
民主主義の弊害である、少数派*3の自由の侵害を防止するのが自由主義である、ともいえます。

「人民の2人の敵は犯罪者と政府である。したがって、第2(政府)が1番目(犯罪者)の合法化バージョンにならぬように、憲法の鎖で羽交い締めにしよう。」―トマス・ジェファーソン


平等を推進する民主主義は、多数派による少数派の侵害という不平等がうまれ、結果自由が奪われます。
かといって、自由主義だけだと、いつになっても民衆は虐げられたままになってしまうのでしょう。
さて、この対立する二つの概念ですが、一体どうしたらいいのでしょうか?

日本国憲法の三大原則に国民主権基本的人権の尊重がありますが、この二つは矛盾していることになってしまわないのでしょうか?

実際にはいろいろと細かい調整をしているわけですが、疲れたのでこの話はまた今度。
でわでわ。

*1:一番の例は自由民主党

*2:そうでない場合もありますが、その場合でも最上位が憲法であることは変わりありません

*3:貴族に限らず、民衆の少数派も含みますが