Sunnnah

それはそうと、響くんは悩んでいるみたいですね。
まあ、フクベエについては俺はどんな話し合いをしたのか知らないから横においておくとして、個人的なWESAの伝統についての考え方をちょっと語る。むちゃむちゃ長いので、興味ない人は読まないように。

「伝統を覆していいのはその道を極めたものだけ」なんて言葉がある。陳腐なようでいて、これは大事なこと。
人は新しいことをやりたがる。
伝統とはすなわち古いもので、古いものは良くないものと考えがちで、新しくしたがる。伝統の意味も深く考えず。


伝統が伝統であることに意味があるのと同様に、伝統の中にはもはや時代遅れなもの、あるいは間違ったものが存在するのは間違いない。
だが、時代遅れだから悪いとか、その伝統が間違っているとか、あるいはこう新しくすれば良くなるはずということを、いったい誰が正しく判断するのか?
そもそも時代遅れだとか、間違っているとかの判断が間違ってしまうことは少なくないし、仮に間違っていたとしても、新しくしたらなお悪くなってしまうことだって多い。小泉改革はすべて成功したか?


そこで「伝統を覆していいのはその道を極めたものだけ」という言葉の意味が出てくる。その道を極めたものでようやく、正しい判断が下せるようになるという意味なのだろう。駆け出しのヒヨッコほど新しいことをやりたがるが、右も左もわからないような奴に、改善できる可能性はほとんど無い。

まあ、その道を極めろなんていわれても何処が極めし領域なのかなど到底わからないので、さすがにそれは大げさだとしてもいえることがある。
「改革が改悪に終わったとして、責任を取れるのか?」
責任がとれないならば、手をつけるべきではない。これはすなわち日本人的事なかれ主義の発想であるといえるかもしれない。
だが、なぜAD=DAのときに、Unknown riskのためにプランをとらないのかということの根本はここにあるのであろう。
政府は国民に、プランが現状を必ず良くする責任があるのだといえる。現状でその責任を果たしているかを別として、理念的に。
だからUnknown ADなんてものを期待してプランをとるなどというのは言語道断なのである。
なぜなら、いったん害悪がおきてしまえば、責任を取るのは非情に困難なのである。おきてしまったことは覆せない。なんらかの修復は可能である場合もある。賠償だったり、補償だったり、あるいはなんらかの手段で。
しかし、それでも何かおきたらその時に賠償するからいいじゃないかというのが許されるとは思えない。人が死ねば取り返しはつかないのだ。

被害によっては、責任者としての責任は辞任でとることができることもある。だが国家自体が辞任ができるはずもない。
責任は常に完全にとれるわけではない。とるように努力することはできても。
だからこそ、責任を取ることの無いような立場の人物が、声高に改革を叫んだとしても、実際にはそうはいかないのである。口ではなんとでもいえる。だからこそ、失敗すれば責任を取る、その立場と覚悟のある人物こそが本来改革を唱えるべきであると考える。


そこでWESAはどうか?
責任など到底とれない。そもそも責任などない。なにかに失敗したからといって責任を取らせるような、あるいは取らせようと努力させるような仕組みが何処にもない。あるのは周囲からの非難だけである。
学生のボランティアでやってるようなサークル活動で、責任なんてものの所在が明確になっているわけがない。

例えば、新歓で新入生が0人だった。誰がどう責任をとるのか?
例えば、マネージが失敗して一年生がやめていった。他大に悪い印象を与えた。誰がどう責任をとるのか?
例えば、新たな試みを行ったサマーキャンプで失敗して、一年生が残らなかった。誰がどう責任をとるのか?
誰も取れるわけがない。賠償金を払えば解決するのか?WESAをやめれば解決するのか?
到底しない。

あるいは、協力して奔走して少しでも被害を小さくすることはできるだろう。例えば(ryの時のように。
運がよければ、完全に修復できることだってあるだろう。

だが、ほとんどの場合はそれができない。ましてや個人の力では。
さらにWESAの場合は、マネージに関わる期間が一年間。各活動に対して一回きりだ。失敗しても次の年にはもういない。
変えた結果、例えば5年後に問題が発生してもそれはもはや対岸の火事でしかない。他人事だ。
そうでなくても、そもそもサークルでしかにWESAの構成員に責任問うのは困難だし、責任感を求めたってしょうがない。個人個人のプライドに任せるしかない。
どのような責任を誰が誰に問えるというのか。


だから、WESAで大事なのは失敗しないこと。新しいことに挑戦して失敗したら、誰も責任は取りきれない。誰も、修復しきれない。
だから、とにかく成功させること。
だから、成功させるために、むやみに伝統を否定するのではなく、むやみに伝統を覆すのでもなく、むやみに伝統を無視するのではなく、伝統を正面から受け止めて使いこなせ。

新しいことにチャレンジして失敗した例がいくつもある。当然、WESAにも。
それでもどうしても、この伝統は間違っているのだと思うのであったら、あるいは自分はよりよくできると思っているのであったら、失敗は絶対許されないという覚悟と、その伝統の存在する理由と、それを改革した場合のあらゆる不安要素に対する考えられる限りの検討と、万一失敗した場合、責任は取りきれずとも後始末に奔走するのは自分だというプライドを持って、改革に取り組め。

できないなら、ことなかれ主義だとか、頭が固いとか、保守的過ぎるとか言われても、新しいことに挑戦すべきでない。

WESAでは、失敗しても責任などとれない。そもそもが声高に改革をのたまえる様な環境ではない。それを忘れないように。

って引退して人間がいっても説得力がないですね。
ちなみに、OB会費の話との矛盾点ですけど、あれはあくまでも期間が短いのと説明が足りないのが問題であって、OB会費なんか払わなくていいじゃんって主張しているわけではないので、矛盾しません。