けふの現実逃避。偽と真

正式な論理学では、「前提が偽である命題は、結論の内容にかかわらず真である」という解釈をします。
例えば「WESAがKOのサークルなら、部室は大隈講堂小ホールである」という文は正しいことになります。より正確な表現を使うならば妥当である、となります。
つまり結論がどんなありえない内容でも、前提が嘘だったらその内容は正しいんですよ。「1が3で割り切れるなら、早稲田の創設者は福沢諭吉である」とかね。
ところで、命題が真という時、論理学者は「妥当」と「真理」という二つの場合わけをします。論理的には正しい場合は「妥当である」、そして命題が実際にも正しい場合は「真理である」と区別します。
例えば、「WESAにはドラマセクションがある。WESAは英語部である。ゆえにWESAは英語劇をやる」というのは妥当で、「WESAにはディベート活動がある。WESAは英語部である。ゆえにWESAでは英語ディベートをやる」というのは真理ということになります。

ちなみに法学は「妥当」で構成されていますので、法律の条文中に記載されていることが前提となり、そこから導き出される結論がたとえ一般的、社会常識的に奇妙なものであっても妥当であれば採択されます。これがしばしば納得できない裁判になるわけですが・・・・

最後に問題。ある文章が存在します。その肯定文も、否定文も真である(妥当、真理を問わず)ような文章を考えてください。

解答例

野郎、婦女子ともに二人からなる集団では、その半分は男である/ない(真理の場合)
1+1=3ならば、地球は立方体である/ない(妥当な場合)

  • けふのBGMその2  平沢進作曲  "BEHELIT"