探々求々

http://guideline.livedoor.biz/archives/50942416.html
科学は万能ではないっていういい例。
非常に興味深い記事。
結構いいかげんな記述もあるので注意。要検証。1も丸々信じてはいけません。


335のいうことがまさに、だが。しかし数学はゲーデル不完全性定理という根本的な矛盾性を抱えている。


んで、個人的な「最先端科学でも解明されていない当たり前のこと。」についての考察。
それは、自由意志の存在。


人間には自由な意思があるっていうけど、まったく証明されていない。
自由な意思の存在の検証をするためには、同じ状況に同じ人間を放り込んでみる必要があるけど、そんなことは実現不可能なわけで。
仮に同じ客観的状況をつくりだすことが可能であっても、そのときにはその人間には一回目の状況のときにとった自分の行動とその結果が頭の中に残ってしまっている。
だから、それが二回目の行動に影響を与えないとはいえない。与えるともいえないけど。だから、結局それが同じ状況とはいいきれない。似たような状況というだけでは、検証の真実性に疑問が残る。



ちなみに、自由意志があるならば、そこで毎回違う行動をとるはずである。まあ選択肢とは無限にあるとは限らないので、実験を繰り返せば重なる場合もあるだろうけど。
しかし、同じ状況に放り込んでみたら常に同じ行動をその人物がとる場合には、その人間には自由意志があるとはいえないことになる。
その人物をその単一の行動に移させる「何か」が存在するはずである。
それは、その人の性格による傾向かもしれないし、理性的判断かもしれないし、周囲の状況かもしれない。その性格傾向を作り上げた環境かもしれない。
とにかく、その人物はその「自由な」意思によって行動を決定したのではなく、その行動にいたる決定をする意思を形作る、あるいは後押しする「何か」が存在していることになる。


実際に、実験によって統計を取ってみると、ある特定の、同様の状況では人間が一定の行動をとる傾向が強い場合は結構あって、この場合は自由意志とは必ずしもいえないのではないかという疑問がのこる。
周囲の状況によって、その人間はそのような決定をとらされているのではないか、というものが。


すると、どうなるか。法律家志望なので刑法学に結び付けて考えると
刑法では責任主義をとる。「責任無ければ刑罰なし」である。
もし仮に、人間に自由意志がないのだとすると、その人が犯罪を犯したこともその人の自由な意思決定に基づくものではなくて、周囲のなんらかによって決定させられたことになる。
すると、その犯罪については本人が自分できめたわけではなく、何かにきめさせらたのだから、責任がないことになり、不可罰という結論に至るはずである。
同じ状況に放り込まれたら、誰もがその犯罪行動にいたるという場合に、責任があるといえるかは微妙であるからである。


この「誰もが」、という文言には注意が必要である。
同じ状況というのは、必ずしも犯行当時の状況だけではなくて、その犯人の生い立ちなど、あらゆる状況がはいる。
したがって、この「誰もが」という文言は、犯行時までの人生において、生い立ちから何から何までまったく一緒の状況に生物学的に別人が放り込まれたら誰でも、という意味である。したがって上のほうで述べている「同一人物」という文言においては、生物学的な同一性よりもむしろ人生過程の同一性のほうがむしろ大事であり、したがって人生過程が同一であれば生物学的に別人であっても一種の同一人物であると考えられることにもなる。


なぜ全てが一緒でなければならないかというと、犯人の性格や、理性的判断傾向なども意思決定に影響をすると考えるわけであるが、性格等の形成についても自己内で独立的に形成されるとはいいがたく、幼少時からの環境によって左右されることが少なくないわけで、したがってそのような犯行傾向にいたる性格を持っていたとしても、その性格を築きあげたのが周囲の環境等であるならば、やはり犯人には意思決定は結局、自由なそれではなく「周囲の何か」によってなされていることになる。


したがってこの問題は「犯行当時の状況にそれ以外の人物*1が放り込まれたとしても、その犯罪をしたかどうか」、という問題ではない。これでは、そもそも意思決定に至らせると考えている周囲の「何か」がそもそも違うため、「自由な」意思があるかどうかの検証にはならないのである。
だから実験不可能なのである。


以上のように、人間の意思決定は、周囲の「何か」によってなされると考えるのであるならば、つまり自由意志がないと考えるのであれば、およそ人間に刑罰を科すことは責任主義の観点から許されない。
人間の意思決定に人格等が関わるとして、その人格等形成過程においても周囲の状況によって形成される。
また、人格にプラスして決定時の周囲の状況によって意思決定がなされるとなったならば、そのような状況では「誰でも」犯行をするわけであって、責任はないのである。


この自由な意思不存在の考えが正しいとすると、人間が真に自由意志を持っているのは出生直後までであって*2、その後は生きるとともに周囲から影響を受け続けることによって鎖を掛けられ続けることになり、自由な意思は束縛された意思へと変化する。
周囲からの影響がまだ少なく、曲がりなりにもある程度の自由な意思決定をしているであろう子供のうちは、そもそも責任能力無しなので刑罰は科されないし、大人になればその意思決定は自由ではないので結局責任無しということになって、結局刑罰は科されないことになる。


自由な意思が残っている子供には、まだ事理の弁識能力がないとされるわけであるが、事理を弁識してしまうと今度はもうその事理に意思決定を縛られていることになるのがわかるだろうか?
子供はわがままをいうものであるが、大人はわがままを言ってはいけないとされている。これが意思決定に対する束縛そのものである。


また、仮に人格形成において先天的な「何か(DNA等)」が環境以上に大きな影響を与えるのだとしても*3、人は生まれてくるときに人格形成に影響を与えるとされる先天的な「何か」を自分で選択できるはずがないのであり、結局犯人はその犯行にいたる意思決定に影響を与えたとされるその性格についてはなんら責任を持たないことになるはずである。


さて、では以上の自由意思不存在論を全面否定して、人間には自由な意思があるとすると今度はどうなるか。
現代の通説である相対的応報刑論において*4、刑罰には三つの意味があるとされる。
一つが責任応報としての制裁。
一つが一般予防。
もう一つが特別予防。


一般予防とはつまり犯罪抑止力のことであり、特別予防とは再犯防止のことである。
さて、人間に完全な自由意志があるとすると、人間は周囲の状況に関係なく意思決定をするわけであるので、どんなに重い刑罰が存在したって自由に犯行の意思決定をするはずである。
したがって一般予防効果が刑罰にはなくなる。
また、周囲の状況が性格形成に影響を与えないとすると、刑罰によって二度と犯罪を犯さないようにしようなどというが心中に生まれることはない。性格形成に影響を与えるとしても、その性格とは関係なしに自由な意思によって再び犯行をすることはありえるわけだから*5、特別予防効果もない。


すると刑罰には制裁としての意味しかないわけであって、制裁としての刑罰の正当性というのは実は相当怪しい。
刑罰は被害者の報復感情の満足に走ってはいけないわけであって、またそのような制度思想はないとされている。
刑罰としての制裁をしても起こった被害は元にはもどらない。
したがって、一般予防と特別予防の二つが刑罰に存在しないとなると、結局は民事上の損害賠償等の原状回復義務のみを認めて、刑罰は認めないという方向にならなければ、法理論的な正当性がなくなってしまう。


なんと、完全な自由意志があるとすると責任ありとして刑罰が適用できる代わりに、刑罰がなくなってしまうのである。



では、現代はどのようにしてその問題を回避しているか。
よく上の文章を読んでほしいのだが、意思が周囲の状況によって「決定される」という文章と「影響を受ける」という文章がある。
つまりそういうことである。
周囲の状況によって「完全に」決定されるわけではないし、「完全に」自由な意思によって決定されるわけでもない。
周囲の状況による影響と、本人のある程度自由な意思が絡みあっていると考えるのである。
周囲の状況等によって選択肢が限定されるなどの影響は受けるが、その中でどういう選択をするかどうかといった程度の意思決定の自由は残されている、といったところだろうか。


これを「決定されつつ、決定する」といっている。よって刑罰を科すことができる、となっているわけである。



だが、結局この考えについても科学的に実証されたわけではない、机上の論理である。
難しいものだ。

*1:人生過程等がまったく別の

*2:これも実は怪しい。胎内で周囲から影響を受けていないとは言い切れない

*3:つまり生物学的に同一人物であることが大きな要因になったとしても

*4:詳しくは応報刑論と目的刑論を参照

*5:自由な意思なので再犯するかは起こってみないとわからない。コントロール不能だから確率も予想できないはず