現実逃避としての昨日の続き

カンファメ論

昨日の三角ロジックのように、カンファメにもいくつかの説の対立がある。

1.要請説(必須説)→某大学に毎年この傾向が見られる。特に春セミ、アッセンでは顕著
カンファメは必ず行うべし、という説。


2.積極的認容説(有用説)→おそらくはDIS界における通説
  カンファメは理解を確認し、深めるのに有用なので、積極的に行うべし。


3.不要説(理想追求説)
カンファメは本来的には必要ではない。
プレゼンが完璧である、もしくは、理解力が非常に高ければ、あるいはプレゼンと理解力がともに一定程度に達していればカンファメはなくてもDISは十分可能である。
実際に、コンフュージョンを見事に解決する人は、誰かにカンファメされることなく話を理解しているのだから、その手の人物のみでDISすると仮定すれば、ゼロカンファメDISの可能性が十分ある。


プレゼンや理解力の向上の面からも、タイムアロケの面からも、カンファメがない方が理想のDISである、という前提を採用する説。
54代WESAのDISスタにおける定説。*1


不要説の一形態として、俺の採る説を上げておきたい。

  • 消極的許容説(教育的効果説)

カンファメがないほうが理想であるとしつつも、カンファメをすることによって各種のDISの能力を上げる効果があるため*2、初、中級者に限っては積極的に行うこともやむをえない、という説。上級者は自ら以外では解決できないコンフュージョンがない限り、行うべきではない。

これらを発展するとハンドリング不要説を導くこともできる。
ただし、ハンドリングの定義によって異なる。
実際には、ハンドリングの理想像の違い、ということになるだろう。

*1:一部の例外を除いて、54代PDの際にはカンファメの回数が片手の指で足りた。コンパリの際にすら両手に満たなかった。ゆえに、リフレの一言目が常に「もっとカンファメしようよ」だった。ちなみにそれに対する反論は常に「なくてもわかるんですよ」だった。

*2:例として、プレゼン能力の向上、ハンドリングの基礎的能力の習得など。