ところで

ロジカル・シンキングの日本語訳が論理的思考じゃないとすればなんなんだ?

俺の知る限りでは広義の
ロジカル・シンキングは3つの側面からなるわけで。

  1. 「論理が正しいか否かの判断」
  2. 「理詰めの分析」
  3. 「論理的か否か(理に適っているか否か)の判断」


クリティカル・シンキングも、まあいくつも定義があるけど
Ennis(1987)の一般的定義によれば、
「何を信じ,何をすべきかの判断のための,合理的な反省的思考(reflective thinking:J.デューイの影響が大らしい)」

この場合のクリティカル(批判的な)とは主に自己批判をさす。

あるいは
「適切な根拠(事実,理論等)を基にし,妥当な推論過程を経て,結論・判断を導き出す思考過程,あるいは,所与の議論・主張について,その根拠や推論過程の適切さを吟味する思考過程である。」
とどこぞの教授は丁寧に定義しているようです。



上記からわかるように
「ロジカル・シンキング」とはクリティカル・シンキングの上位あるいは包括概念であるというのは現状に即しているとはいえない。


ロジカル・シンキングとは、突き詰めてしまえば自らの主張と根拠とのつながり(因果関係)を探していく、考えていく、深めていくものである。
ロジカル・シンキングはともすると,視野狭窄の筋に入り込む危険がある。
それを防ぐために自らがロジカル・シンキングによって考えた因果関係を相対化する必要がある。


クリティカル・シンキングとは自らが打ち立てた因果関係(通常因果関係が確認されればロジカルであると考える)が真であるかを「検証」するものである、といえる。



すなわちそれは単にロジックの筋が,つじつまがあっているというだけではなく,それを多角的に妥当かどうか点検する、それがクリテイカル・シンキングである。



つまりロジカル・シンキングが因果関係の「発見」を重視するのに対し、クリティカル・シンキングはその「確認」を重視する。
ものすごーく噛み砕いて言うとね。




つまるところ、独りよがりの主観的ロジカル・シンキング(そんなものは本来ロジカルでもなんでもないのだが)とあえて区別するために自己思考の客観化としてクリティカルという言葉が使われているというのが一般的らしいですね。


したがっていえるのは、本来の本質は同じなんですよ。両方とも。自己仮説の客観的検証なんて論理を構築するためには当たり前ですから。数学やればわかるっしょ。


と、ロジカルであるためにはクリティカルな視点が必須であるという概念に立つならば、ロジカル・シンキングにとってクリティカル・シンキングは必要条件である、すなわち内包する下位概念であることになります。
が、しかし現状でそういう使われ方はされないようです。なかなかね。



トモハル君は『日経文庫 ロジカル・シンキング入門』でも読んだんですかね?
あれによるとロジカル・シンキングのスキルを学ぶための最大の壁が、「自分の意見とは異なる他人の立場に立って考えられるか、自分の意見に対しても反論ができるか」*1といった客観性であることが指摘されていますね。
つまりこの本ではロジカル・シンキングのためのクリティカル・シンキングという考えになってます。


あー疲れた。どうでもいいや。



ちなみに本来ディスにおけるアーギュメントの真髄、本質とは自らの意見を相手に納得、受け入れさせる「説得」ではなく、皆が互いの意見を練磨しあうことによって最良のコンクルージョンを「構築」することである。


すなわち、ディスの目的には本質的に「説得力」は存在しない。むしろそれが目的となるようならばクリティカル・シンキングができていない一つの証拠候補となりうる。



まして、他者が必ずしもロジカルであるとは限らない。
すなわち他者を説得するには単なるロジカルさではまるで足りない。
論理、利害、熱意、カリスマそして少々の虚偽。これがなければならない。


ディスなどというゲーム空間では到底身につきませんな。

*1:なんともディベート的な本です。著者ディベーターですから