内角の和が180度にならない三角形

どんなものかはこのページをみれば大体がわかると思いますが。

ユークリッド幾何学とそれに基づく公理系では存在しません。
なぜなら三角形はあくまでも2次元上のもので、2次元は平面であるからです。
ユークリッド幾何学公準
(1)任意の点から任意の点へ直線を引くこと。(どの点からどの点へも直線が引ける)
(2)有限直線を連続して一直線に延長すること。 (直線はどこまでものばすことができる)
(3)任意の点と任意の距離で円をかくこと。 (点と半径が決まれば円がかける)
(4)すべての直角は等しい。
(5)一つの直線が二本の直線と交わり、同じ側の内角の和が二直角より小さいならば、この二直線を限りなく延長すると、二直角より小さな角のある側で交わる。

です。公準とは明白である、つまり疑うことのできない基礎ということです。
すなわち証明不可能である基本法則です。


このうちの第五公準を噛み砕くとこの中に「三角形の内角の和は180度」、「平行線は交わらない」ということが入っています。


つまり、ユークリッド幾何学における公理では、必ず三角形の内角の和は180度なんですよ。

しかし、19世紀になって、ガウス、ボイヤ、リーマン、ロバチェフスキーといった数学者によってこの考えに疑問が投げかけられました。



簡単に述べると、公理に対する考え方の変化です。
ユークリッド幾何学というのは全ての幾何学の基本だと思われてきました。すなわち、ユークリッド幾何学の公理とは、かならず成り立つとかんがえられていた世界の法則であったため、証明をせずに使われていたわけです。*1


しかし、ガウス、ボイヤ、リーマン、ロバチェフスキーらによって、公理の概念が変化しました。
公理とはいままで考えられてきたような普遍の真理ではなく、「これらの基本法則によって世界が成り立っていると仮定するならば」といったような、世界観相の前提条件と変化しています。


これによると、ユークリッド幾何学がわれわれの世界の経験的事実からなる法則を公理としているのに対し、非ユークリッド幾何学*2においてはわれわれの経験的事実に基づいていないことになります。

すなわち、三角形の内角の和が180度にならない場合とは、われわれの存在する世界ではない場合ならばありうる、ということです。

より正確に述べるなら、公理系に三角形の内角の和は、180度よりもっと小さいとすると、またはもっと大きいとする公準を入れると、これまで考えられてきた世界とはもっと別の世界が成り立つという結果がわかったということになります。
このことから、実在の空間と一致する真の幾何学と考えられていたユークリッド幾何も、ひとつの論理的体系にすぎない事が判明したわけです。
ちなみに後にガウスが空間歪曲率という概念を考え、現在では、空間歪曲率ゼロのものが、ユークリッド幾何、プラスの値のとるものがリーマン幾何、マイナスの値をとるものがロバチェフスキー幾何と定義されており、幾何学全体が統一されています。

そしてアインシュタインは、ミンコウスキーの4次元時空連続体の概念にこのリーマン幾何を適用することによって彼の相対性理論による宇宙モデルを確立する事が出来たわけです。



この考え方は実は宇宙は無限か有限か、果てはあるのか無いのか、という話につながります。なぜなら公理とは世界のあり方を考える上での前提条件的仮定であるからです。
前提条件が変わればその観相の結果も変わるわけですから。*3
「宇宙は……有限であるが、果ては無い」といった考えの根本は数学があるわけです。

僕の座右の銘「世界は数でできている」ですが、こういうことを考えれば一理あると思いませんか?


少し話は変わりますが
例えば、アインシュタイン相対性理論も経験的事実に反しているという部分では非ユークリッド幾何学と同様です。*4だからなかなか受け入れられなかったんですね。*5
詳しくはこのページを見てみるといいかもしれません。
わかりやすく書いてあります。

このページよりの引用ですが
Q)
ユークリッド幾何学は経験的事実に反しています。経験的事実に反することを容認するといかに事態が混乱するか、次のような例え話を用いてみます。

傷害事件や殺人事件などの犯罪捜査のときには、容疑者にアリバイがあるかどうかが最初に問われます。一般的には、アリバイがあれば容疑者は事件には関与していないと断定され、犯人の候補からはずされます。このアリバイという概念の根拠になっているのは「人間は離れた2つの場所に同時刻に存在することができない」という私たちの経験的事実すなわち良識です。しかし、この良識が正しいことを証明した人は、いまだかつて誰もいません。そこで、この盲点を取り上げて検察官がこう主張したら裁判はどうなってしまうでしょうか?

「確かに被告は東京で事件のあった時刻にアメリカに滞在していたことは事実である。しかし、1人の人間が離れた別の場所に同時刻に存在できないという経験的事実はまだ証明されていない。したがって、アメリカにいたから東京にいなかったという結論は出てこない。引き続き、裁判を続行していただきたい」

裁判官からは往生際の悪い検察官と思われてしまうでしょう。経験的事実をもとにして思考することは良識的に思考することに相当します。相対性理論は「従来の物理学の常識を覆した画期的な理論」ではなく「老若男女誰もが持っているであろう良識に反する理論」かもしれません。
(UQ


つまり内角の和が180度ではない三角形は実のところこの考えと同質であるということです。
第五公準が証明できない*6ゆえに、別の仮定を公理とすえているわけです。


ながなが書きましたが、結局言いたいことは「内角の和が180度でない三角形もあるんだぁ」と単純に考えるのはよろしくないということです。数学と世界に関する深い洞察があってこその結論であるということまで学んでほしいですね。


このサイトを隅から隅まで熟読して理解すれば、「内角の和が180度でない三角形もある」という考えがいかに世界の真理に関わっているかわかると思います。



ま、みんな数学嫌いだと思うけど、俺が文系なのに数学が大好きな理由の一部はこの辺にあるんですね。


もう一度あえて言いましょう、


「世界は数でできている」



はてさて何人がついたこれた、というかそもそもこれをきちんと読んでいるのでせうか。

*1:正確には公理とは経験的事実からなる真理であり、証明不可能なことが公理の公理たる所以。証明されるのであればそれは公理とはいえない

*2:リーマン幾何学が代表

*3:とかなりぶっちゃけていいました。そんな単純じゃないですよ、ほんとは。

*4:そもそもリーマン幾何学を使ってるので当然といえば当然ですが

*5:相対性理論が正しいかどうかは今なお議論されていますが

*6:正確には少し違うんですけど